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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月24日・「直木賞」になった小説家・直木三十五の命日

昭和9(1934年)の2月24日は現在も文豪・芥川龍之介さんを記念して純文学作品に贈られる「芥川賞」と共に大衆文学作品の箔付けとして存続している「直木賞」の由来になった小説家・直木三十五(さんじゅうご)さんの命日です。43歳でした。
先ずこの奇妙奇天烈な名前について説明すると直木さんの本名は植村姓なので「植」の漢字を分解して「直木」にして、31歳の時に直木三十一の名前で雑誌に寄稿して以来、年齢に合わせて三十二、三十三に改名していたのですが、34歳になって直木三十四で原稿を提出すると事情を知らない編集部員が三十三に訂正して出版したためその年は三十三を維持していました。ところが35歳になると「散々=33なことが起こった」と三十五に改名してこの名前を維持するようになったのだそうです。三十六にしなかったのは「三十六計逃げるが勝ちになるのが嫌だった」と説明しています。
直木さんは明治24(1891)年に現在の大阪市中央区安堂寺町で生まれました。幼い頃は「長くは生きない」と思われるほど病弱でしたが頻繁に通院していた薄恕一(すすきじょいち)医師の治療が適切だったようで旧制中学校を卒業すると医院でアルバイトをさせて学費を稼がせてもらいました。そして父親の反対を押し切って早稲田大学予科に入って高等師範部英語科に進学しますが学費未納で諭旨中退になりましたが、それからも通学して講義にも出て卒業写真の撮影にも参加しています。同じことを今東光大僧正も東京帝国大学でやっていますがこちらは学生寮の寮長を務め、講義で舌鋒鋭い質問を受けていた教授が学生だと信じて疑わなかったそうですから数段上のようです。
大正9(1920)年からは里見弴さんや久米正雄さんが創刊した文芸雑誌の編集に携わりますが、大正12(1923)年に関東大震災が発生すると大阪に移住して川口松太郎さんと娯楽雑誌の編集に当たり、次第に時代小説を書くようになりました。
33歳だった大正14(1925)年になると映画会社のマキノ・プロダクションを主催していたマキノ省三監督の私邸に居候するようになり、自分の作品を映画化させますがことごとく失敗して昭和2(1927)年に「映画などは子供の遊びだ」と言う許し難い捨て台詞を吐いて退居しています。その年にマキノ監督渾身の大作「忠魂義烈・実録忠臣蔵(直木さんが「原作を書く」と言いながら放棄した)」を編集中に私邸が全焼すると直木さんが現れ、小遣いをせびり取った挙句に「これでマキノは潰れる」と言い触らしたためマキノ・プロダクションは所属俳優・女優の大量退社に見舞われることになりました。
さらに昭和4(1929)年になると「由比根元大殺記」で大衆作家として認められ、映画の水戸黄門シリーズの原作になった「黄門廻国記」や島津藩のお由羅騒動を描いた「南国太平記」を発表しましたが後者は三田村鳶魚さんの発表済みの作品の盗作でした。
そんな直木さんについてマキノ監督の息子の雅弘さんは「直木賞ができた時、何やこれと首を傾げた。ついに彼の名作らしいものを全く知らなかった愚かな私は現在も続いている直木賞に一体どんな値打ちがのかと首を傾げずにはいられないのである」と切って捨てていますが出版社とマスコミとしては商業的な利用価値があるのでしょう。
  1. 2024/02/24(土) 15:34:27|
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