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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月1日・大阪の禁野火薬庫が大爆発した。

昭和14(1939)年の明日3月1日に現在の大阪府枚方市の西部の禁野(きんや)本町にあった陸軍の禁野火薬庫が2度目の大爆発を起こしました。
大阪への火薬庫の設置は日本陸軍の設立構想を立案した村田蔵六さんが提言しましたが明治2(1869)年に本人が毛利藩士に斬殺された上、明治7(1874)年の佐賀の乱と遭難・漂着した沖縄の漁民の保護のための台湾出兵、明治9(1876)年の熊本の神風連の乱と福岡の秋月の乱、萩の乱が続発した後、明治10(1877)年には西南戦争が発生して巨額の予算を浪費したものの西日本の不平士族の危険性が消滅したため火薬庫の必要性も薄らいで放置されていました。
ところが明治27(1894)年に日清戦争が発生すると船舶で大陸に弾薬を運び出すための集積地として港湾都市の大阪に火薬庫を設置する必要性が復活して建設に着手しましたが、綿火薬庫や弾薬庫、庁舎、兵営などの20棟以上の施設が完成したのは終戦後の明治29(1896)年でした。おまけに日露戦争後の明治42(1909)年8月20日の午後2時にダイナマイトの自然発火による爆発事故が発生して10人が負傷し、家屋1495戸が全半壊したため、周囲には爆発時の被害極限と延焼防止のための土塁が巡らされました。そして満州事変が始まっていた昭和8(1933)年には敷地を43ヘクタールまで拡張して、昭和13(1938)年には隣接して陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所が開設されると保管だけでなく砲弾や火薬の生産拠点にもなりました。
そんな昭和14(1939)年3月1日の午後2時45分に火薬庫内の15番倉庫で砲弾の解体作業中に不時発火して火薬を装填していた砲弾に引火して大爆発が発生したのです。爆発音は大阪市内だけでなく京都などの近隣府県一帯にまで響き渡り、午後7時までに29回爆発が続き、火災は3月3日の正午になってようやく鎮火しました。
砲弾の破片は半径2キロの範囲に飛散して禁野や中宮などの周辺地域では大半の家屋が衝撃と爆風、延焼によって全半壊して、枚方、香里、御殿山、楠葉、橋本などの京阪沿線や淀川の対岸の現在の高槻市や交野市でも窓ガラスが割れ、屋根瓦が吹き飛ぶなどの被害が出ました。また枚方市内の殿山第1小学校では室戸台風で全壊して建て直して2年だった校舎が全焼しました。被害としては死亡94名、負傷602名、家屋の全半壊821戸に及び、枚方市は1989年からこの日を「枚方平和の日」にしています。
この2度の事故を受けて陸軍は東洋最大の弾薬庫・大阪兵器補給廠桃園支処(現在も陸上自衛隊が宇治駐屯地桃園分屯地の関西補給処桃園弾薬支処として使用している)を建設して機能の一部を移転させました。
桃園支処がある宇治地区は現在では京都や大阪の都市圏の住宅地になっていますが、名古屋の住宅地になっている高蔵寺には航空自衛隊第4補給処の弾薬庫があり、標高194メートルの高座山(たかくらやま)には半地下式の保管庫が多数設置されていて青森県の東北町に弾薬庫が新設されるまでは全部隊分の弾薬を保管していました。どちらも後から住宅地になってしまい運搬時の安全管理などでは色々と苦労が多いようです。
  1. 2024/02/29(木) 15:07:38|
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