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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月3日・「桃の節句」雛人形の雑知識

野僧には娘がいないのでお雛祭りはできませんが、岡崎の保育園には誰が寄付したのか不明ながらかなり大きくて歴史を感じさせる御殿雛がありました。
最上段に御殿風の建物を設け、中央の部屋に内裏雛=天皇皇后夫婦、左右の部屋に3人官女と5人囃子を並べ、中央の階段の左右に桜と橘、随身の左大臣と右大臣を飾り、その一段下に仕丁(しちょう=雑役)を控えさせて菱餅などの供物を挟んだ一番下の段には輿(こし)と牛車を置いていました。
また妹がいたため我が家でも雛人形を飾りましたが、妹は喜んで飾るものの片づけには関心を示さず放置して遊びに行ってしまうため本を読んでいる野僧が呼ばれて「今日中に片づけないと嫁に行き遅れる」と言いながら焦っている母親を手伝う羽目になりました。そのおかげで保育園で習った雛人形に関する知識が記憶として定着したのです。
先ず「お内裏さまは昔の天皇なので被っている冠の纓(おう=付属する短冊状の飾り)は曲げないで立てなければいけない」と言うかなり高度な歴史の知識でした。実際、昭和の陛下の衣冠束帯姿の御真影を見ると纓は立っていました。装束の袍(ほう=上衣)の色は本来、弘仁格式で天皇だけに許されることになった「黄櫨(きはぜ=赤みを帯びた茶色)」でなければなりませんが、着せている雛人形を見ないので人形メーカーも使用が許されないのでしょう。次に皇后については髪形で最近の雛人形は髪を左右に分けて頭頂部と左右側面を膨らませて背中に垂らした「大垂髪(おすべらかし)」が多いようですが(新聞の番組紹介欄で見る限り今年の大河ドラマでも)、昔の雛人形は真っ直ぐ後ろに垂らして左右のコメカミに筆で黒い筋状の髪が描いてあったそうです。こちらは「下げ髪」と言って平安時代から江戸時代後期に大垂髪が流行するまで受け継がれた宮中の女性の基本的な髪形で、長い黒髪と色白が美人の条件だったため後ろに流した髪の一部だけを残して両頬の横で切り揃え、髪の黒さで顔の白さを際立たせたようです。最後は左右の位置で関東は男性が向かって左、女性が右でも関西は逆に並べるようです。しかし、雛人形は宮中が京都にあった頃の風習を踏襲しているので関西式が正しいそうです。関東式は大正天皇がヨーロッパの王室の夫婦の写真を見て自分の御真影で模倣したため定着したと言われています。
3人官女については中央の三方に杯を載せて座っているのが長老で眉を剃って鉄漿(おはぐろ)を入れて既婚者であることを示しています。5人囃子の楽器は右から扇で口を隠している謳い(ボーカル)、竜笛(横笛)、鼓、太鼓などの和楽器ですが、笙(しょう)や篳篥(ひちりき=縦笛)を入れて人数に合わせています。随身の大臣の左右は向かってではなくお内裏さん=天皇から見た方向(京都市の地名の左京、右京も同様)なので右に置く赤い顔で白く長い髭の年寄りの左大臣の方が上位のようです。
仕丁だけは何故か月代を剃っていて時代考証が難しくなりました。月代自体は合戦で兜を被った時の蒸れ対策で源平の時代から記録がありますが、出陣する時以外にも剃るようになったのは江戸時代になってからです。仕丁の顔は人間の感情の「泣き」「笑い」「怒り」を表現していて味があります。雛飾りの乗り物は駕篭も多いようですが宮中では輿でした。
  1. 2024/03/03(日) 14:10:26|
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