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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月7日・日本史上初の女帝・推古天皇が崩御した。

推古天皇36(628)年の明日3月7日に公式史書である古事記・日本書紀に記載されている日本史では初の女帝の推古天皇が崩御しました。75歳だったとされています。
現在の天皇は126代ですがこのうち女帝は古墳時代の推古天皇(593年から628年)、皇極天皇(642年から645年)=斉明天皇(655年から661年)、持統天皇(690年から697年)、奈良時代の元明天皇(707年から715年)、元正天皇(715年から724年)、孝謙天皇(749年から758年)=称徳天皇(764年から770年)、そして江戸時代の明正天皇(1629年から1641年)、後桜町天皇(1762年から1771年)の11代ですが皇極天皇と斉明天皇、孝謙天皇と称徳天皇は同一現人神物(当時は人物ではなかった)なので9人です。なお、以前は神話の時代の神功皇后を初代女帝としていましたが現在は夫である仲哀天皇が九州征討中に戦崩御したため産んだ応神天皇が成長するまで「職務を代行したに過ぎない」と否定されています。
また推古天皇は異母甥の厩戸皇子(うまやどのみこ)=聖徳太子を皇太子として政務を執らせて佛教の国教化、遣隋使の派遣、十七条憲法の制定などの過去に例がない大胆な政策を実行・推進したことになっていますが、推古天皇の在位時は皇太子を含めて皇族の地位は制度化されておらず、厩戸皇子を皇太子とする記述は日本書紀を編纂した時点の制度をさかのぼって当てはめたのではないかと言われています。
推古天皇は欽明天皇15(554)年に欽明天皇と曽我氏出身の母の間に生まれました。成長すると後に敏達天皇になる異母兄の妃になりますが、585年に在位14年で崩御すると同母兄の用明天皇が即位しました。ところが用明天皇も在位2年で崩御すると異母弟が即位を要求して曽我氏と対立する物部守屋さんと結託して実力行使の挙に出たため曽我氏と共謀して物部一族と共に誅殺したのです。殺害後は曽我氏と異母弟の崇峻天皇を擁立しましたが即位後に両者が対立するようになって592年に殺害されると欽明天皇の子供としては唯一生き残った娘を即位させることで宮中の意見が一致して初の女帝・推古天皇になりました。ちなみに当時は天皇と言う地位や中国風に漢字を用いた謚(おくりな)は存在せず、古事記や日本書紀に見られるような日本語での呼称に漢字を当て字した名前でしたが、奈良時代に皇族出身で唐からの渡来僧の教えを受けて大学頭・文章博士を務めた淡海三船(おうみのみふね)さんが日本書紀に記されている神武天皇から持統天皇まで41代の歴代天皇の中国風の謚を一括して作ったとされています。
持統天皇の治世は後ろ盾の曽我氏が佛教に帰依していたこともあり、佛教の受容から普及・国教化が進展し、600年の遣隋使の派遣以降、大陸からの渡来者によって寺院の建立と銅製の佛像の鋳造が急速に発達し、教義については前述の厩戸皇子が真摯に取り組み、単なる学問に留まらせることなく十七条憲法などによって国政にも反映させました。
惜しむらくは国政を支えた厩戸皇子が推古天皇30(622)年、曽我氏の長・馬子さんが推古天皇34(626)年に亡くなったため崩御までの2年間は余生のようになり、崩御の前日には舒明天皇になる孫と厩戸皇子の息子を呼んで遺訓を与えて亡くなりました。
  1. 2024/03/06(水) 15:57:21|
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