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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月13日・明治の大軍楽家・永井建子1等軍楽長の命日

昭和15(1940)年の明日3月13日は野僧が福岡県春日基地と青森県車力分屯基地の部隊歌代わりに愛唱している「元寇」「雪の進軍」を作詞・作曲した永井建子(ながいけんし)1等軍楽長の命日です。74歳でした。ちなみに昭和17(1942)年に陸軍軍楽少佐が制定されるまでは大尉に相当する1等軍楽長が軍楽科の最上位でした。
永井1等軍楽長は慶応元(1865)年に現在の広島市佐伯区五日市町で寺小屋を経営している父親の次男として生まれました。父親の教育者としての先見性で西洋音楽の素養を養っていたらしく明治11(1878)年に軍楽試業生として創設期の陸軍が徴兵による叩き上げでは不足していた下士官を養成するために設置した教導団に入営して明治13(1880)年に首席で卒業すると陸軍教導団軍楽隊に配属されました。ここで軍楽隊の育成のためにフランスから派遣されていたギュスターブ・シャルル・タグロン大尉の指導を受け、続いて明治17(1884)年に来日したシャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルー大尉に師事して作曲を始め、明治24(1891)年に軍楽隊次長になると明治25(1892)年には歴史を題材にした軍歌「元寇」を発表しています。
明治27(1894)年に始まった日清戦争に第2軍司令部付軍楽隊として出征すると前線の部隊の慰問・激励や占領地の住民に西洋音楽を聴かせることで日本の先進性を宣伝し、捕虜の苛立ちを和らげる任務を負って各地に出向いたため威海衛の征討の過酷な雪中行軍を経験して名曲「雪の進軍」が生まれました。威海衛の征討を指揮した大山巌元帥はこの軍歌が好きで暇があれば蓄音機でレコードを聴いていたそうですが、そう言うセンスがあるのなら気分が暗く沈んでしまう「君が代」を勝手に日本の国歌にしないでもらいたかった=陸軍の式典で自分が好きな雅楽の曲を独断で国歌として演奏させたのが始まり。
明治35(1902)年にはフランス留学を命ぜられて日本から帰国したルルー大尉が隊長を務めたリヨン連隊の軍楽隊で学んで日露戦争が始まっていた明治37(1904)年に帰国しました。日露戦争中の明治38(1905)年には戸山学校に開設された軍楽生徒の教官になるのと同時に陸海軍の軍楽隊が交代で担当して日本人に西洋音楽を普及するのに大きく貢献した日比谷公園音楽堂での演奏会で指揮を執りました。そして明治39(1906)年に第6代陸軍軍楽隊長になったのです。その後も明治43(1910)年にはロンドンでの万国博覧会と日英同盟記念の演奏会に招聘されて軍楽隊員35名を連れて渡英して半年間の航海中の寄港地で演奏会を開いてのべ3700曲を披露しています。
大正4(1915)年に予備役に編入されると帝国劇場の洋楽部長に就任しますが、大正12(1923)年の関東大震災で故郷の広島市西区に移住して晩年を過ごしました。
「元寇」や「雪の進軍」以外の永井1等軍楽長の作品としては「歩兵の本領」が有名ですが、これは陸軍中央幼年学校10期生の加藤明勝生徒が永井1等軍楽長の「小楠公」に詞を付けて学校内で流行させた歌でした。それが歩兵科の歌として全国に広まり、歩兵は人数が多いため徴兵でも経験者が多く、大正11(1922)年には労働運動の高まりの中で「聞け万国の労働者」と始まる歌詞が付いた「メーデーの歌」になりました。
  1. 2024/03/12(火) 14:12:18|
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