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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月17日・「仁義なき戦い」の原作者・美能幸三の命日

2010年の明日3月17日は傑作任侠映画「仁義なき戦い」の原作になる獄中記を執筆した美能幸三(みのこうぞう)さんの命日です。83歳でした。
美能さんは大正15(1926)年に広島県呉市で海軍を退役して海軍の工場で働いている父と尋常小学校の教員の母の間に生まれました。旧制中学校に進学したものの2年で中退して毎日ブラブラしていましたが、志願年齢に達した昭和17(1942)年に海軍の大竹海兵団に入営してラボール、硫黄島を転戦してトラック島で敗戦を迎えたことになっています。しかし、南太平洋の果てのラボールは制海権を奪われてからは移動が困難になり、十重二十重に包囲されていた硫黄島から脱出することは不可能だったのでどちらも信憑性は低いです(戦闘ではなく陣地設営の段階であれば有り得ない話ではない)。
敗戦後は昭和20(1945)年11月に伊豆半島の浦賀に上陸して生還を果たしましたが呉に帰郷すると元の遊び人に戻ってしまいました。そんな昭和22(1947)年5月に呉の遊郭で山村組の組員と旅のヤクザが喧嘩になり、日本刀で組員を負傷させて逃げた旅のヤクザを呉駅前で射殺しながら警察では拳銃を山村組から渡されたことを隠して単独犯行と供述したため組長に認められました。さらに拘置所では整った愛くるしい容姿(おはよう!こどもショーの司会の石川進さんに似ていた)でありながら日本最悪の残忍さを持つ「悪魔のキューピー」こと大西政寛さんと兄弟の杯を交わしました。
結局、懲役12年の判決を受けて広島刑務所で服役すると山村組の組長が用立ててくれた保釈金で仮出獄してそのまま若衆=組員になりました。すると商売上手で呉市内で力を持ってきた山村組長は市内阿賀の名門ヤクザの土岡組が目障りになり、美能さんに組長の暗殺(いわゆる鉄砲玉)を命じましたが重傷を負わせただけで失敗し、再度の暗殺を命じられたものの組事務所は警察に囲まれていて不可能だったため逃亡して2週間後に自首すると広島刑務所に戻されて残りの刑期を服役し、土岡組組長暗殺未遂事件では懲役8年の判決を受けて岐阜刑務所で服役しました。ところがサンフランシスコ条約の発効の恩赦で減刑されて仮出獄して呉に戻ると広島大戦争と呼ばれる抗争の真只中で、美能さんも重要な役柄を演じたため昭和38(1963)年に別件逮捕されて仮釈放を取り消された上に網走刑務所で服役することになりました。
この服役中に中国新聞の記者が文芸春秋に掲載した「暴力と闘った中国新聞」と言う記事を読んで当事者として記録を残すことを決意して獄中記の執筆を開始したのです。この獄中記は400字詰め原稿用紙700枚に及び5年の歳月を要しました。そして出獄後に元新聞記者の作家・飯干晃一さんの手に渡り、週刊サンケイに「仁義なき戦い・広島やくざ流血20年の記録」として46回にわたり連載されると昭和48(1973)年1月に東映映画「仁義なき戦い」が公開されて以降、昭和49(1974)年6月の「完結篇」まで「広島死闘篇」「代理戦争」「頂上作戦」の全5作の大人気シリーズになりました。
一方、美能さんは昭和45(1970)年9月に札幌刑務所で刑期を終えるとヤクザ業界とは決別し、呉市で始めた冠婚葬祭業が成功して実業家として後半生を送りました。
  1. 2024/03/16(土) 16:11:34|
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