fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月24日・第2代国際連盟事務次長・杉村陽太郎の命日

昭和14(1939)年の明日3月24日は前の5000円札の肖像だった新渡戸稲造さんの後任の国際連盟事務次長を務めた杉村陽太郎さんの命日です。超人的に頑強な肉体の持ち主でしたが胃癌を患ったため享年は53歳でした。
敗戦後の日本では国際連盟については昭和8(1933)年2月24日に松岡洋右全権代表=外務大臣が脱退を宣言する場面しか知られていませんが、大正7(1918)年11月11日の第1次世界大戦の終戦から1年2ヶ月後の大正9(1920)年1月10日に創設されて同日付で新渡戸稲造さんが初代国際連盟事務次長に就任し、続いて杉村陽太郎さんが昭和2(1927)年1月19日に2代目として引き継ぎました。しかし、残念ながら日本の脱退で残務整理を終えた昭和8(1933)年3月27日に退任しました。
結局、2代にわたって日本人が重責を担ってアジアの立場を国際社会に認めさせていたにも関わらず日本社会は興味を示さず、ソビエト連邦のスターリン書記長が画策する第3インターナショナル=世界共産革命に無自覚に組み込まれた関東軍が起こした満州事変の実態調査のために派遣されたリットン調査団の報告書を拒否するために国際社会から孤立した上で嫌われ者の集まりに参加することを選んだのです。
杉村さんは明治17(1884)年に新渡戸さんと同じく旧・南部藩士で外務省に入省して晩年には駐ブラジル公使を務めて日本人移民を推進した外交官の長男として東京で生まれました。東京で生まれたためなのか屋敷跡に銅像を建てて記念公園にしている新渡戸さんに比べて盛岡市の扱いは冷淡です。
12歳頃だった明治29(1896)年から嘉納治五郎先生が経営する全寮制の私塾に入門して文武両道を学びながら高等師範学校附属中学校に通学し、旧制・第1高等学校を経て明治41(1908)年に東京帝国大学法学部を修了して外務省に入省しました。大学時代は身長180センチ、体重100キロ超の巨漢で嘉納先生直伝の柔道は4段(後に6段)、古式泳法・水府流太田派の名手で16キロの遠泳競技会で優勝しています。
外務省ではフランスのリヨン大学に公費留学して日本人としては3人目の博士号を取得して大正12(1923)年にはフランス大使館に1等書記官として赴任しました。この在任中にはドーバー海峡横断遠泳を計画しましたが、後に首相となる加藤高明大使から「見本の外交官が賞金目当てで挑戦すると思われる」「失敗すれば恥になる」と猛反対されて断念しています。その一方でフランスでの柔道の普及に尽力しました。
そして同年に国際連盟事務局の次長、大正15(1926)年に日本の国際連盟事務局長を歴任して昭和2(1927)年に国際連盟事務次長に就任しました。
しかし、前述の経緯で退任すると恩師である嘉納先生が世界オリンピック委員会の委員として目指した昭和15(1940)年の札幌冬季オリンピックと東京夏季オリンピックの誘致に成功しました。さらに昭和9(1934)年にはイタリア大使、昭和12(1937)年からはフランス大使に就任しましたが、翌年1月に胃癌を発症したため帰国して在任のまま亡くなりました。
  1. 2024/03/23(土) 15:48:43|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ774 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ773>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/9021-c612a8b8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)