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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月30日・江戸蘭学の最高峰・大槻玄沢の命日

文政10(1827)年の明日3月30日は(時代・地域としての)江戸の医学に限らず蘭学の最高峰と言っても過言ではない大槻玄沢さんの命日です。69歳でした。
大槻さんは宝暦7(1757)年に現在の岩手県南部の伊達藩の支藩だった磐井郡=現在の一関市でオランダ流外科医の息子として生まれました。幼い頃から才気煥発で9歳の時に父が支藩の藩医になったため陣屋下(=城下)に転居すると13歳から後に非常食の作り方を解説した「民間備荒録」「備荒草木図」を刊行して天保の飢饉では多くの人命を救った蘭方医の建部清庵さんに師事して医学と語学の基礎を身につけました。
22歳だった安永9(1778)年に建部さんの跡取り息子と一緒に建部さんの筆友=ペンフレンドの杉田玄白さんの江戸の私塾・天真楼に入門するのと同時にオランダ語では日本の最高峰で解体新書の翻訳を主導した前野良沢さんの内弟子になって語学力に磨きをかけました(大槻さんの「玄沢」の号は2人の合成)。
すると天明2(1786)年に平賀源内さんを介した杉田さんと前野さんの共通の友人で江戸詰め伊達藩医の国際学者(ロシアに関する情報と分析を論述した「赤蝦夷風説考」を刊行した)の工藤平助さんが訪ねてきて親しくなり、そこで大槻さんが支藩に許された江戸遊学の期限が迫っていることを嘆くと工藤さんが支藩の藩主に要望して天明4(1784)年まで2年延長されたことで学問は大きく発展しました。帰郷すると間もなく父が病没したため家督を継いで定住することになりました。
ところが支藩が江戸で最高峰の学問を修めてきた大槻さんの才覚を惜しんだ翌年に長崎に遊学させたので4ヶ月間の滞在中は通詞(通訳)宅に寄宿してオランダ語の会話を学んで江戸へ戻ると天明6(1786)年に工藤さんの尽力で支藩の藩医から伊達本藩の江戸詰め藩医に抜擢されて江戸で暮らすことになりました。こうして江戸での活躍が始まり、先ずオランダ語だけでなくオランダを通じて知り得た西洋事情を教える私塾・芝蘭堂を開校して多くの若者を集め、優れた人材を育成しました。そして語学においては師の前野さんの指示で天明8(1788)年にオランダ語学習の手引書「蘭学階梯」を刊行してその後のオランダ語の普及と発展に道筋をつけました。
一方、蘭方医学においては寛政2(1789)年から師の杉田さんの指示でオランダ語の知識がない中で暗中模索しながら翻訳した「解体新書」の再翻訳・肯定に取り組み、文化元(1804)年に文章が完成すると「解体新書」では木版印刷だった図面を原本と同じ銅版印刷にして文政9(1826)年に「重訂解体新書」として刊行したのです。
その後もオランダ語学の前野さんと蘭方医学の杉田さんの両巨頭の業績を1人で担うようになり、寛政6(1794)年には江戸へ出府したオランダ商館長と面談したことを切っ掛けにして日本人には馴染みがなかった太陽暦の1月1日にスプーンの代わりに中華風のレンゲ、ナイフの代わりに小刀を使って長崎帰りの料理人に作らせた西洋料理と言うよりも非日本風の料理を楽しむ「オランダ正月」と呼ぶ新年会を芝蘭堂で催すようになり、これは大槻さんが亡くなるまで蘭学者や舶来物愛好家の年中行事になりました。
大槻玄沢「風雲児たち」の若き日の大槻玄沢さん
  1. 2024/03/29(金) 15:11:09|
  2. 日記(暦)
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