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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月1日・公立小学校が戦時教育の国民学校に変更された。

昭和16(1941)年4月1日に国民学校法が施行されて、それまでの小学校の尋常科6年と高等科2年を国民学校の初等科6年と高等科2年にするのと同時に義務教育の年限を尋常科の6年間から高等科2年までの8年間に延長しました(実際は戦時非常措置によって延期されて敗戦まで実行されなかった)。また学区制を導入して初等教育は地元の国民学校で受ける現在にも通じる制度を確立しています。なお、私立の小学校は根拠法令が異なるため該当せず国民学校にはなりませんでした。
敗戦後の日本の歴史観では軍国主義の国家体制を造ったのは極東軍事裁判のA級戦犯の筆頭として吊首刑になった東條英機陸軍大将が昭和16年10月18日に首相になってからだと思いがちですが、実際は対米英戦争の前に昭和6(1931)年に始まった満州事変への対応で政治介入を強める陸軍に苦慮していた近衛文麿内閣が昭和13(1938)年に「国家総動員法」を制定したように学校教育まで戦時態勢に移行させたのです。
実際、国民学校令の第1条では「国民学校は皇国の道に則りて初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を為すを以って目的とす」と宣言していて明治以降の学校教育も教育勅語を尊重して忠君愛国の洗脳を推進していましたが、それをより明確に前面に押し出しています。ちなみに「国民学校」と言う名称はドイツの初等教育の「フォルクス=国民・民族・シューレ=学校」の直訳とも言われ、ナチス・ドイツ=ヒトラー政権に心酔していたのは陸軍や松岡洋右外務大臣だけではなかったようです。
ただし、第2次近衛内閣から東條内閣まで文部大臣を務めた医学者で生理学者の橋田邦彦さんは30歳代前半にドイツに留学していますがナチス・ドイツに傾倒していたと言う記録は見当たりません。確かに橋田文部大臣は東條首相の強い要請によって留任したものの学校教育まで軍事色で塗り潰そうとする首相や側近=腰巾着とは反りが合わず、陸軍が人材確保のために大学などの高等教育を短縮しようとすると断固拒否し、昭和18(1943)年の学徒出征にも強硬に反対しました。
国民学校の科目は国民科と言う修身=道徳、国語、国史、地理の文科系と橋田文部大臣の指導により理科と算数=数学を関連づけて教育する理数科、そして戦時=出征に備える身体を作る体育と武道(女子は断ることができた)の体錬科、音楽と図画、工作から習字に初等科女子には裁縫、高等科女子には調理ほかを加えた家事まで含める芸能科があり、さらに高等科には農業、工業、商業、漁業から選択する実業科がありました。中でも橋田文部大臣は初等科1年から自然観察を取り入れさせて現在の小学校の理科教育にも影響を与えています。
また集団行動に習熟させるために入学式、卒業式、学期の始業式、修業式に天長節や紀元節などの国家神道の祭事を加えた儀式と運動会や遠足、学芸会などの学校行事を重視しています。これも現在の小学校の教育に踏襲されているようです。
しかし、昭和20(1945)年5月には「戦時学校教育令」が公布されて高等科の生徒=現在の中学生を労働力とするために授業が無期限に停止されてしまいました。
  1. 2024/03/31(日) 14:30:26|
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